昨日は特に力仕事をしたわけでもないのに、なぜかふくらはぎと腰が筋肉痛。
夢も見たけど、かなりおぼろげで覚えてない;
相当、気力を使ったんだろうな、昨日の一件で。
「実家に行くことも、もう指で数えるくらいしかないんだし、あと3ヶ月もすれば”しがらみ”を手放せるはず」
と自分で自分を励ましました。
ほんとは何度も親友に話を聞いてもらいたいという欲求が湧きましたが・・・「どうせ愚痴を言ってしまうんだろう;自分で決めたこと・実行していることを否定するようなマネはしたくないな」となんとか思い止まりました。
祐気取り旅行の際にも、不安になると私は親友に電話して弱音吐いてましたし。
自分でも、よくないな~と思いつつ(><)
隣人の嫌がらせや嫌味やお節介を受けながら、それでも一人でやり通す強い意志が私の中にあるはず。
逆境があるってことは、それを越えるだけの価値があるということなんだ。
以前は他者に相談し、その助言に右往左往しながら自分というものがあるのかないのか?自分の意志よりも”安全な道”を選びたがっていたような気がします。
今は自問自答しながら叱咤激励しながら、自分の気持ちに誠実であろうとしている。
今までこんな風に絶対的な信頼を自身に傾けたことがあっただろうか?
過去を振り返ってみても・・・無かったように思う。
たとえあったとしても、それは自分以外の誰かの存在が大きかったかもな。
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これは私だけが思っている疑問というか定義なのか?
例えば「私はこっちの道へ行こうと思う」と誰かに言うと、その人は「こっちじゃなく、あっちの道へ行くのが普通だろう?」と言います。
そしてある人は「こっちの道へ行くの?」と眉をひそめます。
表面的には「あっちの道」は安全な道で間違いないように見えます。
でもこれ、深層心理的に捉えてみると人は他者が幸せになることを無意識的に拒みます。
あくまで”無意識”ですので悪気はありません。これは本能なので仕方ないことです。
私はそれでも”こっちの道”を行くことに決め、進んでいくと幾度も困難がやってきます。
そこでその困難を他者に伝えると
「ほら見たことか!だからあっちの道だと言ったんだ」と言われます。
またある人は「こっちの道が困難なら今からでもあっちの道へ行った方がいいんじゃない?」とアドバイスをくれます。
この時点で発生する「迷い」「疑心暗鬼」「逃避願望」がなぜ起こったかといえば「他者に困難だと伝えた」ことが原因なのではないでしょうか?
自分を疑ってしまったことがそもそもの原因。
何かを果たそうと決意したら、それ相当の覚悟と強い精神が必要であり、試されます。
そしてあらゆる困難という試練が目の前に立ちふさがって嫌でも不安になるものです。
そこでいつも私が陥ってた”甘い罠”。
責任放棄・・・それをする理由、理屈、言い訳を他者に求め、従うことで安堵という名の”諦め”を選んできた。
チャンスの神様はそんなことを何度もやっている私に「口ほどにもないやつだ」とは言わずに、寛大な心でそれでも何度もチャンスをくれます。
同じチャンスというものは二度とありませんが、本当に掴みたいと望むチャンスは・・・過去に逃してきた好機とはまた違ってみえます。←これはいわば経緯的な模範のようです。
私が今回、はじめて”黙秘”したということは、これこそ本当に掴みたかったものであるという証のように思えます。
私が今までずっと欲しがってきたものは、他者からの信頼でも愛でもありませんでした。
自分自身への愛と信頼だったようです。
どんなに人から求められても、与えられても、私は満足しませんでした。
それは何より、自分自身に疑問を感じていたからなのかもしれません。
今こそ、”こっちの道”へ歩き出し振り返ることなく進んでいけるのは、”あっちの道”ばかり選んできた経験のお陰だと思っています。
あっちの道は甘かったけど、満たされることはけしてなかったという経験。